出たっきり邦人 1592 My story

■□■□■ 出たっきり邦人・欧州編・2018/10/02 1592 ■□■□■

      〓ローマの田舎町から〓

< 私の原点 >

今回は配信日が私の63回目の誕生日の前日に当たりましたので、

これまですでに5回配信させていただきましたが、

このあたりで少し自己紹介をしておこうかと思った次第です。

ですからイタリアのことローマのことに関しては今回は期待薄、

最後にちょこっとレシピを紹介してお茶をにごしますので

興味のない方はここでこのメールを消去なさってください(笑)

すでに63歳という年は言ってしまいましたね。

生まれは大阪市北区茶屋町20番地と54歳まで確信しておりました。

そうではないと知ったのは54歳の誕生日を数日過ぎた時でした。

生誕地が間違っていたわけではないのです。

内藤正宣と内藤スエノの長女だと思っていたら

養女だったと知りました。

しかもe-mailでその通知は日本からやって来ました。

便利な時代になったと喜ぶべきか

情緒のない時代になったと嘆きべきか

どちらもその時の私には全く無関心なことでしたが。

亡き私の両親は生涯一言もそのことには触れませんでした。

長い間、辛い秘密を持ったままの彼らの人生。

もしも今彼らと話すことができたとしたら

どれだけ感謝の気持を伝えても足りないと思っています。

54歳になるまで一度も自分の素性を疑ったことがなかったのは

ひとえに彼らが実の娘以上に

大切に育ててくれたからにほかなりません。

学校などへの書類の提出に関しても手を回して私には

事実を知らせることがなかったのですから。

そして、このことを54歳で知ったことは幸いでした。

36歳で母親となり、母親がどんな思いで子供に接するのか、

母親にとって子どもとはどんな存在なのか

おそらく若い頃には思いもつかなかったことが

少なからず分かっていたと思うから。

どんな事情があったにせよ自分の娘を手放した実母を

若い頃にはおそらく責め、恨みもしたことでしょう。

私自信、割と気難しい人間だと思っていますから尚更。

e-mailをくださった仲介の方の文章も素晴らしかったのですが、

それを理解できる人生経験を自分が積んでいたのだと思います。

辛い選択をしなければならなかった彼女に同情はしても

恨む気持ちは微塵もおこりませんでした。

若干の遺産の分割のために23年ぶりで日本の地を踏むことが

できたのも実母のおかげでしょう。

そんなことでもなければ肉親のいない私が

日本へ行くことは永遠になかったかもしれません。

このあたりからお話したら今回のメルマガは

きっと長くなりすぎてしまいますね。

でも、この事件皆様には知っていて頂きたいことの一つです。

また将来、自分自身のことをお話するときのために。

話を元に戻せば、エンジニアだった優しい父親と

明るく楽しい、洋裁も和裁もこなし料理が上手な母親とに

それこそ舐めるように育てられ幸せな子供時代を過ごしました。

父の仕事場は山の中のトンネル工事だったり

ダムの工事だったりで何度も引っ越しをして

学校も2度転校をしたので幼なじみがいないことが

若干残念ではありますが、それは贅沢な悩みでしょう。

中学高校は東大阪市内の学校に通い、

父は大きくなった私に転校させまいと勤め先を変えました。

ただ、それが親戚のところだったので

中学高校時代の私は母と小姑たちの確執を目の当たりにし、

いささかつらい時期を過ごしました。

きっとそれはいい経験だったのでしょうけれど、

私が親戚嫌いになったのは確かです。(笑)

大学へ行きたかったけれど公立に入る実力がなく、

早く働いて親戚のところから離れて母を助け出したい

というような思いから高卒でOLに、

ただ、子供の頃からの夢だった女優への道が諦めきれず

大反対の父と妥協するためにアナウンサーに。

そしてアルバイトにモデルのみちへ。

身長が169センチしかなく、

メジャーなファッションショーには出られませんでしたが

某有名化粧品会社のテレビCMに起用されたこともあります。

ただ、母は私が20歳の時に、逝ってしまい

モデルの仕事で生計が立ったところは知らぬまま。

父も7年後に食道がんで亡き人になり、一人っ子の私は

運よく21歳で俳優学校で知り合ったSYと結婚していたので

彼が支えてくれました。

父の最後を私と共に見とってくれたお礼に

父の保険金で夫と共にイタリア旅行をしたのが

後々の大きな転換につながります。

SYとの結婚生活は11年半でイタリアで幕を閉じました。

彼との生活は毎日必ず笑うことがあるほど楽しかったのですが…

そのあたりをまた10年後ぐらいにお話できればと思います(笑)

お察しのように今やイタリア人の夫とひとり息子と、

犬が一匹、4匹のメス猫達とアンズタケが生えるような

林(庭と呼ぶのが恥ずかしい)の中に住んでいます。

趣味は実母を知ってからゴルフになりました。

実母が生涯独身をとおし、

唯一の楽しみがゴルフだったと聞いて以来、

遺品として引き取った彼女の道具で初めてみたら

なんとハマり込んでしまったのです。

それまでは庭仕事が趣味で

一人っきりで花達とばかり話していたものだから

いささかうつ病状態になり家族が心配していたのですが、

ゴルフを初めて全てが快方に向かいました。

今やたくさんの友達もでき、

毎日のように10キロ近くを歩くものだから

真っ黒に日焼けして見るからに健康です。

これも実母のおかげだと感謝しています。

では、自己紹介はこれぐらいにしてお約束の簡単レシピ。

今日は、ソースの基本中の基本

アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ

日本でたんにペペロンチーノと呼ばれているものです。

誰がそんなふうに端折ってしまったのか

責任を問いたいところです。(笑)

だって、イタリアにいらしてレストランで

ただ「ペペロンチーノ」と注文したら

赤唐辛子を持ってきてくれますよ。

はしょるならアーリオ・オーリオと端折ってください。

さて、アーリオはニンニクのこと。

オーリオはエクストラ・バージン・オイル

イタリアではオイルといえば普通はオリーブオイルを指します。

フライパンに野菜炒めをするよりもさらに多めのオイルを入れて

温まったらニンニクとタカノツメを入れます。

ニンニクは私は横に切りますが縦割りにする人もいます。

最近のはやりは薄皮を向かないで包丁の腹などで

パンッとたていて潰してそのまま使うカミーチャという方法。

一番楽です、薄皮を向かないのですから。

弱火でしっかりとニンニクとタカノツメを炒め

ニンニクがきつね色になった頃取り出します。

そこに茹でたばかりのパスタ

(この場合はスパゲッティが一番合うと思いますが、

お好みのパスタでもちろん構いません。)

を素早く混ぜて、はい!出来上がり。

これがアーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ

少し日本風にアレンジするなら

生醤油を垂らすとか、刻み海苔を加えるといいですね。

ごまをかけたりしてもいいでしょう。

日本でも具だくさんのうどんより素うどんや

かけそばのほうが麺そのものの美味しさが伝わりますが

アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノもしかり。

あまりゴタゴタ加えないでパスタそのもののあじを

楽しんでいただきたいですね。

このあたりにご質問があれば遠慮無くどうぞ。

02/10/2018 Keiko (ローマ)

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