出たっきり邦人 1554 ローマの誕生

■□■□■ 出たっきり邦人・欧州編・201804171554 ■□■□■



=ローマの田舎町から= 今回の話題 <ローマの生い立ち>

 

紀元前753年の421日が、ローマの誕生した日ということです。

こんなにはっきりとした誕生日をもつ街は少ないでしょう。



421日が今のグレゴリオ式カレンダーによるものか、

それ以前のチェーザレ(シーザー)のカレンダー(ユリウス暦)

なのかあるいはもっと古い太陰暦なのかは知りません。

が、おそらくはプルタルコスという古代ローマ時代の

ギリシャ人著述家がローマの起源というか

初代のローマ王、ロムルスについて著述しているので

プルタルコスの生きた時代(46−127年)には

すでにユリウス暦が浸透していたのでおそらくユリウス暦だと

思って差支えはないと思われますが。



では、そんなに古いことがどうしてわかるのかと思われる

かもしれませんが、こちらには文字がかなり古くから存在し、

あまり変わっていないということです。

日本の歴史もこれまでわれわれが学校で学んだ頃よりは

かなり古くまでさかのぼっているようですが、残念ながら

記述がないので、まだ分からないことが多いようですね。

 

とにかく今日は、このローマの誕生日前後のことをお話しましょう。

(人物や都市の名前などの多くはイタリア語による表記です。

ラテン語表記と多少の違いがある点をお含み置きください。)
 

有名なトロイの戦争が劇的な終末を遂げたとき、

ごくわずかですが生き残った人達がいます。

その中にエネア(アエネアス)とその父アンキーセ

そして息子のアスカニオがいました。


彼らが港にたどり着いたとき、

すでにギリシャ軍も迫っていたのですが、

美の女神ヴェーネレ(ヴィーナス)、

もしくはギリシャ軍に殺されたばかりのエネアの妻が現れて

逃げ道を示唆し、彼らを助けたという伝説が伝わっています。

エネアの母親がヴェーネレだったとも言われています。



オリンポスの神々はわれわれよりもよほど人間味あふれる

神様たちでそれぞれごひいきがあり、

アテナはその名のとうりアテネ・ギリシャ軍を守り、

ヴェーネレはトロイに味方したということです。



さて、長くてつらい航海の後、

エネアたちを乗せた船が今のローマの少し南の海辺にたどり着き、

やがてラティウムという海辺の町のお姫様ラヴィニアと結ばれます。

が、エネアの息子アスカニオはそこを離れアルバ・ロンガという

当事としてはたいそう立派な町を築いたということです。



アルバ・ロンガは今のカステルガンドルフォ、(ローマの南隣)

法王様の夏のお住まいがあることで有名な湖に面した町です。



そのアルバ・ロンガの11代目(あるいは13代目)の

王プロカ亡き後、後継者が王位争いを繰り広げ、

兄王ヌミトルを排斥し王位を奪った弟アムリウスは、

兄の子供たちを皆殺しにするのですが、

まだ幼かった女の子、レア・シルヴィアだけは命を永らえます。



当事ローマの街には聖なる火を守る神殿、

ヴェスタの神殿というのがあり、

その神殿に仕える巫女さんは、10代の中ごろに巫女さんになり、

その後30年間勤め上げてからでないと

結婚できなったということです。

もし、それ以前に男性と契りを交わすと

生き埋めの刑に処されたということです。



レア・シルヴィアもその神殿の巫女さんにさせられたので、

結婚して男児を出産する可能性がないからと、

王位簒奪者の叔父はたかをくくっていたのですが…



ある日、自分の身の不運を嘆いて川べりで休息していた

レア・シルヴィアを見初めたのが戦の神マルテ(マルス)。

彼女の美しさにすっかり参ってしまったマルテと

レア・シルヴィアの間に双子の男児、

ロモロ(ロムルス)とレモ(レムス)が生まれます。



事を聞きつけた叔父王はすぐにこの双子を殺すように

部下に命じるのですが、

いたいけな赤ちゃんを手にかけられなかった部下は、

双子をかごに乗せて川へ流します。



そのかごが運良く川岸に乗り上げて、そこを通りかかったメス狼が

自分のおっぱいを含ませて育て上げたといわれています。

あるいは、メス狼というあまりありがたくないあだ名をもつ

羊飼いの奥さんが育てたという説もあります。


(ちなみにメス狼というのは身持ちのよくない女性という意味だそうです。)



今もローマの町のあちこちで見かける、

狼の下で小さな双子がそのおっぱいを吸っているブロンズ像や

浮き彫りや小さなおみやげ品などはこの話からきてわけで、

つまり今でもローマのシンボルとなっているのです。



さて、成人して自分たちの身の上を知ったロモロとレモは

祖父の敵を討った後、祖父を王位につけ、

自分たちはかつて拾われ育てられたテヴェレ川

(ローマを縦断する川)の河畔に新しい町を築きます。



ただここで双子の意見は分かれ、ロモロはパラティーノの丘に、

レモはアヴェンティーノの丘に町を築こうとし、

意見がまとまらないので頭上を何羽の鳥が舞ったかという

簡単な鳥占いで決着をつけ、占いにはロモロが勝ったので、

町はパラティーノの丘に作られました。

でも、腹の虫が収まらなかったレモは、

これ見よがしにロモロが作った城壁を越え、

それに腹を立てたロモロが実の弟を殺したと伝わっています。



とにかくこうして出来た新しい町に、

初代の王であるロモロの名からローマという名が

つけられたということです。



他の説では、当事中部イタリアにたくさんの町を持っていた

エトルスク人の言葉で、川のことをルーモンと呼び、

川沿いの町という意味でルーモンから

ローマになったというのもあります。



こうしてロモロが王位に付いた日421日が

ローマの誕生日なのですが。。。



町ができ、ふと気がついてみるとここには男性しかいません。

ロモロとレモはアルバ・ロンガから勇敢な羊飼いの男たち

数百人を従えて新しいまちづくりにやってきたのですから。



パラティーノの丘から今のフォロ・ロマーノと呼ばれる

ローマ帝国時代の街の中心を隔てた所、

(まだ当時はただの湿原でしたが)クイリナーレの丘には

サビーニ人という人たちの街がありました。



現在クイリナーレの丘には大統領官邸があります。



よく、ローマは7つの丘に生まれた町と言われますが、

そして今やその7つの丘全てはローマの町の中心部なのですが、

当時はそれぞれの丘ごとに違う種族(サビーニ人やラテン人)が

それぞれの町を築いていたようです。



ロモロはローマの町の将来を思い、

なんとか女性たちを手に入れようと祖父に相談し、

ネットゥーノ(ネプチューン)=海の神

を祀る祭事にサビーニ人を含めた近隣諸国の人々を招待します。

そして、祭たけなわとなった時に、ローマ勢が一気に

サビーニの女性たちを拉致してしまうのです。



もちろん娘達を奪われたサビーニ人たちは取り戻そうと

戦闘を仕掛けますが、すでにローマ勢は近隣では一番武勇に

長けていたようで苦戦を強いられます。



そして何より陵奪された女性たちが中に入って

「サビーニが勝てば我々は夫や子供を失います。

ローマが勝てば我々は父親や兄弟を失います。

どうか悲劇を繰り返さないように和解してください。」

というような内容の話をして、その後ローマとサビーニは

双方の王が一緒に国を統括する形で折り合いをつけたと

いうことです。

 

以上がローマで代々語り継がれてきた

自分たちの祖国の建設にまつわるお話です。





次回の配信は、スイス チューリヒからきいろさんです。



417日 ローマ Keiko

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