おそらくたくさんの日本の皆様にも応援していただいたことと思います。
おかげさまで、イタリアチームがヨーロピアンチャンピオンになりました!
長い自粛生活の末のこの大挙。もうイタリアはどこもお祭り騒ぎです。
昨夜は、ご近所の方々も事あるごとに興奮して、大声で声援したり、
ラッパをならしたり、勝利の瞬間には花火があちこちで上がっていました。
今日のニュースも多くの時間がこのことに割かれており、
長い間、コロナ関連のニュースばかりだったので、
久々の明るいニュースに湧いています。
スローガンとして「スポーツからイタリアの復興を!」とありました。
そう言えば、第2時大戦後すぐの1946年6月15日に始まった「Giro d’ITALIA」
イタリア人に馴染みの深い自転車競技、イタリア中を縦断して勝者を決める競技ですが、
最終日7月17日に、見事賞者となったGino Bartaliの言葉も「復興のGiroだ!」というものでした。
根っから明るいイタリア人も、2年に及ぼうとするコロナ禍ではかなり参っています。
そんな中での本当に嬉しい出来事でした。
日本には、オリンピックというもっと大きなチャンスがあるのに、
無観客での開催などといいう愚策で、その価値を失わせてしまうようですね。
とても残念なことです。
さて、今日は古い友人の話を聞いていただこうと思っています。
サッカーが大好きな、ナポリのサッカー競技場のすぐ前の
コンドミニアムに住んでいるドメニコさんの話です。
ドメニコさんは、利発な奥さんと仲のいい兄弟たちに囲まれて、
仕事も観光バスを何台も所有する、小さな旅行社の経営を順調にこなしていました。
ところが奥さんが長女を生んだときに先ず大きな課題を課せられました。
生まれたお嬢さんは、脳に少しの障害があり、詳しくは判りませんが、
視神経に近いところだったので、医師から
「脳を取るか視力を取るか」と言う決断を迫られました。
つまり、お嬢さんは、正常な脳を持つ盲目の女性として生きるか、
少し知恵遅れの、でも健康上は異常のない女性として生きるか、
どちらかしかないということなのです。
こんな悲しい決断をせまられたドメニコさん。
彼は後者を選びました。
きっと、少しの知恵遅れなら家族の介添えがあれば生きていける、
そのほうがこの世に存在する美しいものを見ずに生きるより
娘さんは幸せなのではないかと判断したのでした。
家族がまとまって暮らすイタリアではそれはあまり難しいことではないと私も思います。
実際に大きくなられた娘さんに出会って、
その明るさに父親の選択が間違っていなかったと確信しました。
ただ、ドメニコさんへの試練はそれだけではなかったのです。
娘さんを育てるのに無二な協力者、奥さんががんに侵されてしまったのです。
当時のイタリアではそのがんの治療は難しい、
フランスにいい病院があると医師から聴かされたドメニコさんは、
その日のうちにフランスに飛び、入院手続きを終えました。
幸い手術はうまくいったのですが、15年間再発なく過ぎれば安心できる
という医師の言葉に、その日以来、大好きだったワインをはじめ
一切のアルコール類を断って、奥さんの回復を神に祈りました。
ドメニコさんとは仕事で知り合いました。
自由に身動きが取れるように旅行会社は閉めて、
個人で観光ガイドとして仕事を為さっていました。
とっても穏やかな人で、どうかすると明るすぎたり
女性に優しすぎるナポリのガイドさんが多い中で、
ひときわインテリジェンスがきらめく人でした。
冗談を言いながら、ナポリの歴史やポンペイの遺跡のことを詳しく教えてくれました。
英語のほかにドイツ語も巧みに操り、日本語も一度覚えたフレーズは決して忘れない人でした。
当然、家族のそういう出来事は私などには話してくれませんでした。
ある日、彼の弟さんと一緒に仕事をしたときのこと。
昼食時に私をパーティーに誘ってくれたのです。
どういうパーティーかというと、
ナポリ湾に大きな船を浮かべて船上で夕食を取り、
天候が許せばナポリ湾を一周する!というすばらしい企画に驚き、
どうしてそんなたいそうなパーティーをするのかと聞いたところ、
ことのいきさつを話してくれたのです。
つまり、その身を削られるような思いの15年が過ぎようとしているのです。
1も2もなく快諾しましたが、レストランの中で、流れる涙を抑えることはできませんでした。
こんなすばらしい話を聞いたことはありません。
そして、本当にわがことのようにうれしかったのです。
大きな船の上にテーブルがたくさん並び、着飾ったイタリア人が大勢集まり、
彼の親交の広さ、人徳を感じさせられるものでした。
お嬢さんも奥さんも元気に顔を揃え、二人の男兄弟とその家族たち、
いつも仕事を一緒にする仲間たちに囲まれ、
ついにドメニコさんは乾杯の後、ワインを飲み干しました!!!
それまで気がつかなかったのです。
いつも昼食時に彼は、新聞を読みながら暇をつぶしていました。
われわれは彼のそばでワインやリモンチェッロに舌鼓を打っていたのです。
たまに、どうしてドメニコさんは食べないの?と聞く人がいると
「奥さんのおいしい手料理が食べたいからよ。」と知ったかぶりで答えていた私。
もちろんそれも正解でしょうが、知らない人がワインを注いだりするのを避けるために、
そして、もしそういうことが起きたときに、飲まなくなった理由を、
あるいはつまらぬうそをいいたくないために、一切何も口にしないのでした。
すばらしいパーティーでした。
同僚のガイドさんの中に、プロとして十分通用するくらい歌の上手な人がいて、
もう一人、ギターの伴奏が巧みな人と共にたくさんのナポリ民謡を歌ってくれました。
ナポリ民謡も、内容がわかると結構かなしい歌が多いのです。
その二人が「知床旅情」を歌ったとき、2番は私が歌わされました。(汗)
「知床旅情」はギリシャでも聞いたことがあります。世界的に有名な歌のようです。
初めてお会いする奥さんは、とっても元気そうで、
しかもお年を伺っても信じられないくらい、お若くはつらつとした印象でした。
私は大切な友人の奥様に、母の形見の羽織を贈りました。
母が注文して、出来上がったものに袖を通すことなく逝ってしまったのです。
私にも着るチャンスはありませんでした。
母は小柄だったので、私には少し小さすぎたのです。
羽織の紐だけをつけて、仕立て直すことなくしまってありました。
ドメニコさんの奥さんが、
果たしてどういう風にあの羽織を扱っておられるかは知りません。
でも、母の形見だと言ったときに、本当に大切なものを受け取るように
押し頂いてくださったことだけで、私には十分でした。
気がつけば、もう30年近い昔の話ですが、
今も思い出すたびに目頭が熱くなってしまいます。
2021年7月13日 Keiko(ローマ)